2011年4月28日木曜日

【六花18号】歴史誰そ彼 Rekishi Tasokare 其の1

六花には歴史関係の投稿もある。
今回は六花18号(2003年12月)から記事を紹介します。

阿倍仲麻呂 (あべのなかまろ) - 李白に死んだと思われた文人

 なぜ阿倍仲麻呂かというと、百人一首で有名ということもあるが、よく分からないからである。
百人一首には「天の原ふりさけみれば春日なる三笠の山に出でし月かも」の歌がある。
この歌は、阿倍仲麻呂が留学先の中国(唐)で、帰国を前に詠んだ望郷の歌とされている。
果たしてそれは本当なのだろうか。

ここでプロフィール。
阿倍仲麻呂(698~770)
717年19歳で遣唐留学生として唐へ渡り、玄宗皇帝に気に入られて役人として出世。
ということは、あの解語の花 楊貴妃にも会っていたんじゃないかな。(関係ない!)
役人といってもちゃんと難関の科挙の試験に受かっているんだからスゴい。
唐名を朝衡(ちょうこう)、あるいは晁衡(ちょうこう)という。
李白や王維らとも交流をする。
帰国を願い出てもなかなか聞き入れられず、753年55才でやっとお許しを得て帰国の途に。
その折の送別の宴で詠んだのが「天の原~」ということになっている。
帰国の船は沖縄まで来るも、暴風雨のため安南(ベトナム)へ漂着。(別船の鑑真は無事日本へ到着)
命からがら長安まで戻り、再び朝廷に仕え、日本の土を踏むことなく72歳で没した。

李白は、阿倍仲麻呂が遭難した翌年に、彼が死んだものと思い、詩を作っている。(一部私訳)
哭晁卿衡     晁卿衡を哭す      晁卿衡(阿倍仲麻呂)を思って泣く
日本晁卿辭帝都、 日本の晁卿帝都を辭し、 日本の晁さんは長安の都に別れを告げ、
征帆一片遶蓬壺。 征帆一片蓬壺を遶る。  帰国する船は小さくなり東海の蓬壺をめぐった。
明月不歸沈碧海、 明月歸らず碧海に沈み、 明月のような貴方は遭難で帰らず青い海に沈み、
白雲愁色滿蒼梧。 白雲愁色蒼梧に滿つ。  白雲は悲しみの色に染まり蒼梧の山に満ちている。

また王維は、阿倍仲麻呂が帰国する際に、送別の詩を作っている。(一部私訳)
送秘書晁監還日本国  秘書晁監の日本国に還るを送る
積水不可極  積水極む可からず       深い深い海
安知滄海東  安んぞ滄海の東を知らんや   青海原の東は知りようもない
九州何處遠  九州何処か遠き        世界中でどこが一番遠いのか(日本だろう)
萬里若乘空  万里空に乗ずるが若し     万里の旅は空を飛んで行くようなもの
向國惟看日  国に向いては惟だ日を看    日本に向かうにはただ太陽の昇る東を見て
歸帆但信風  帰帆は但だ風に信すのみ    帰国の船旅はただ風に任せるだけ
鰲身映天黒  鰲身(ごうしん)天に映じて黒く 大海亀の姿が映って空は黒くなり
魚眼射波紅  魚眼波を射て紅なり      大魚の眼が波を射て海は赤くなる
郷樹扶桑外  郷樹扶桑の外         郷里の樹木は(東海の神木)扶桑より遠く
主人孤島中  主人孤島の中         貴方の主人(天皇)は絶海の孤島の中にいる
別離方異域  別離方(まさ)に異域      貴方はこの度の別れで異郷の人となる
音信若爲通  音信若爲(いかん)してか通ぜん 便りをどのようにして届けようか

李白や王維にここまで詠われた阿倍仲麻呂とは一体どのような人物だったのか。
決断力、行動力、才知、魅力いずれも兼ね備えたスーパーマンに見えてくる。
そもそも、中国に50余年居て、和歌が1首しか残っていないのも不思議だ。
一番分からないのは、中国で詠んだとされる和歌を誰がいつ日本に運んで来たのかということだ。
帰国前の送別の宴で詠んだというのはドラマチックではあるが、史実は藪の中である。

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