2011年8月10日水曜日

中国古典の力

今日届いた文藝春秋9月号に、次期総理候補の記事が載っていた。野田財務大臣、馬淵前国土交通大臣、海江田経済産業大臣の3人だが、そのうち馬淵氏を除く2人は中国古典の言葉を引用していた。

野田氏は「わが政権構想-今こそ「中庸」の政治を」と題して、次のように述べている。
「結局、大事なのは「中庸」なのです。極端に社会主義にもいかない。市場原理にも振り回されない。それは徹底的な現実主義の道でもあります。大震災から立ち上がろうとしている日本の政治にとって必要なのは、大風呂敷を広げた大構想でもなく、また、必要以上に悲観的な小日本主義に陥ることでもありません。落ち着きを取り戻し、現実に合わせて着実に行動することです。」
⇒「中庸」という聞こえのいい言葉を使い、ごく普通のことを言っているだけですが立派に聞こえます。

海江田氏は「覚悟の手記-大臣辞任を決意させた菅総理の電話」と題する記事だが、小見出しを読むだけで何を言いたいか概ね見当がつくだろう。それは「総理にはしごをはずされた」「あまりに軽すぎる総理の発言」「私の出処進退は潔くありたい」というものだ。
「私は7月21日の参院予算委員会でこう答弁しました。『内閣で一致した言葉でないなら、それは一私人の言葉だから、鴻毛より軽い。総理の言葉は、内閣が一致しての発言なら、泰山より重い。首相の発言は、いつも泰山より重いものであってほしい』
私はずっと司馬遷の『史記』を読んできて、〈死は或いは泰山より重く、或いは鴻毛より軽し〉(命は重んじて惜しむべき場合と、潔く捨てるべき場合とがある。その判断は義にかなうか否かによるべきである)という言葉が頭にあり、こうした表現になりました。」
「私には、リーダーのあるべき姿として、いつも拳々服膺している2つの言葉があります。~(略)~老子はこんな言葉を残しております。〈敢えて天下の先とならず、故に能く成器の長たり〉(自分から人々に先んじようとしないから、優れた指導者となれる)」
「他の人はともかく、私は、『言えば必ず行う、行えば必ず信あり』で残された時間も精一杯、職務にあたっていきたいと考えております。」
⇒海江田氏のはしごをはずされた状態での国会答弁で、鋭い追及に対し、思わず涙ぐんだ姿が記憶に新しい。

中国古典の言葉は、もっている力が大きい。自分の支えとなり、相手の心に届く力がある。その精神と共に今後とも学んでゆきたいと思う。

0 件のコメント: