2011年12月21日水曜日

【六花10号2001/12】「虞美人草」

さて今日は、機関紙「六花」の過去の投稿記事から、中国の故事を題材にした力作を紹介します。
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      「 」  K.Kou

紀元前二百年頃の中国では天下を統一した秦の始皇帝が不老長寿の願いも空しく死去。始皇帝の死後、秦帝国を滅ぼして二大勢力となったのが、楚の項羽と漢の劉邦である。

項羽と劉邦は覇権を争い雌雄を決したが、項羽は利あらずして劉邦に敗れ、垓下(がいか)と云う町に手勢を連れて籠もった。

 楚軍の周囲を囲んだ漢軍に劉邦は敵の楚の地方の歌を歌わせた。これを聞いた項羽は「四面から故郷の楚の歌が聞こえる。もう楚は漢軍に降伏してしまったのか。何と楚人の捕虜の多い事か」と嘆いた。…四方を敵に囲まれて孤立無援の状態が四字熟語となった「四面楚歌」です。

 そこで項羽は一緒に居た愛妃の虞美人(グビジン、美人は女官名)と最後の別れの酒宴を開いたのである。項羽は愛馬の(スイ・馬の名前)愛妃の虞美人を憐れんで詩を歌いました。…これが、垓下の町で歌ったので「垓下の歌」といわれる詩です。

垓 下 の 歌

力は山を抜き気は世を蓋う

時利あらず騅逝かず

騅の逝かざるは奈何(いかん)とすべき

虞や虞や若(なんじ)を奈何せんと

歌の意味は山を引き抜いてしまうほどの力と、世をおおい尽くさんばかりの気力が有る…力も気力も勇壮盛んである事が四字熟語の「抜山蓋世」です。そして時と運は我に味方せずに敗れた。は疲れてもう前に進まない。どうしようか。虞美人や、そなたをどうしたら良いものか…と歌いました。

  宴の後、虞美人は足手まといになるのを嫌い自決します。項羽は騅と手勢で囲みを破り、揚子江の渡し場の地に逃れましたが、渡し守の進言に心を打たれて覚悟を決め、騅を渡し守に譲り、自刎しました。

戦いに勝った漢の劉邦は長安を都として漢王朝を開き、漢の高祖となりました。漢王朝は前漢と後漢に別れますが、約四百年の長きに亘りました。その後、紀元二二十年頃より「三国志」で知られる、魏、呉、蜀の三国時代となります。当時の日本は未だ弥生時代の晩期で「魏志」の「魏志倭人伝」に「倭の邪馬台国の女王、卑弥呼の使節が魏王朝に朝貢して、魏帝より三角縁神獣鏡百枚などを賜った」と、記されていた時代でした。
 さて、虞美人が葬られた墓前には美しい花が咲き、その花を人は虞美人草と名付けました。またの名は、雛罌粟、雛芥子、ヒナゲシで、ケシに似たやや小さい一年草で五月頃に、紅、黄、紫、白色の美しい四弁の花を開きます。西洋名はポピー。フランス名はコクリコです。

2 件のコメント:

Peko さんのコメント...

雛罌粟と言えば、以前「君も雛罌粟われも雛罌粟」という題名の与謝野鉄幹・晶子夫妻の生涯を読んだ覚えがあります。おかげで、与謝野晶子崇拝が、一段と増しました。

最近のニュースでは、コメリがヒナゲシと間違って、ケシを販売してしまいましたね。

まあ、私の時代では、アグネスチャンの「ひなげしの花♪」でしょうか?

美人は、女官名だったのですね。勉強になりました。まさか、シコメと言う女官名は無いんでしょうね。

Dogu さんのコメント...

アグネスチャンの「ひなげしの花♪」ですか。
かなり古いですね。それを知ってる私も古いのかな・・・。