2011年12月3日土曜日

【六花14号2002/12】「師走は先生が走るか?」

早いもので12月です。陰暦12月の異称では師走といい、極月ごくげつ)、臘月ろうげつともいわれる。
今日は師走についての六花投稿を紹介します。
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師走は先生が走るか?  I・S

 十二月を師走(しわす)という。それは「先生が走り回るほど忙しい月」のことだと、単純に思っていた。調べてみて間違いだとわかったが、では、なぜ師走というのか?
▼まずは、困ったときの広辞苑を引いた。「陰暦十二月の異称。また、太陽暦の十二月にもいう。極月(ごくげつ)冬。」とあるのみ。さては広辞苑もわからないのか!▼次は、国語大辞典だ。広辞苑と同じ解説に加えて「語源未詳。師走は当て字。」と、あった。やはり、わからないんだ。でも当て字とは何だ?
▼次に、現代こよみ読み解き事典。ここで初めて諸説が紹介されていた。一般的な説としては、十二月は一年の終わりで皆忙しく、師匠といえども趨走(すうそう=ちょこちょこ走るの意)するというので「師趨」となり、これが師走となったというもの◆他説その一。師は法師の意であり、十二月は僧を迎えて経を読ませる風があったので、師が馳せ走る「師馳月」(しはせづき)であり、これが略されたものとする。これは、暮らしのことば語源辞典でも、平安末期の国語辞典「色葉字類抄」にもあるものとして、有力視している◆他説その二。四季の果てる月の意の「四極」(しはつ)が変化したものとするもの◆他説その三。一年の最後の月になし終える意の「為果つ」(しはつ)が変化したものとするもの◆他説その四。年が果てる意の「年果つ」(としはつ) が変化したものとするもの。
▼諸説あることはわかったが、定説と呼べるものもない。それで、インターネットでの情報収集に乗り出した。二つの有益な情報を得た◆一つは万葉集・日本書紀での表記のこと。早速、日頃読みもしない講談社文庫の万葉集を開いてみた。巻第八―一六四八に「十二月(しはす)には抹雪降ると知らねかも梅の花咲く含めらずして」とあり、日本書紀にも「十二月(しはす)」と出てくる。要するに、万葉・記紀時代は数字で書いて「しはす」と読み、「師走」とは表記していないので、「師走」は後世の当て字であることがわかる。「しはす」が「師走」より先にあったのであるから、字形でアプローチする「師趨」説は消去する◆もう一つは、日本語教育研究所の佐藤先生が国文学者の池田弥三郎氏の説を引用していたこと。これも、読みかけの本の「暮らしの中の日本語」を調べてみた。
▼師走坊主という語があり、それは貧乏でみすぼらしいことの比喩である。十二月は忙しく仏事まで手が回らず、お坊さんは貧乏してしまう。だから、師が走る説は消去▼十二か月の異称のなかに何何月と呼ばない名が三つある。如月(きさらぎ)・弥生・師走だ。この一群は他の月とは分けて考える必要があるらしい。総じて、漢字の字形のみに捕われず、もとの大和ことばに戻して考えることが、月名などの本当の意味に肉薄する方法だと述べている▼「しはす」は「しはつ」「仕果つ」に関連し、一年の極限を意味することばが十二月全体に広がって一か月の名前になったと、池田氏は考えた。
▼「しはす」が「しはつ」から来ているとしても、何故「師走」という漢字を当てたのかは、わからない。ここからは私の無茶苦茶な想像だが、「しはつ」の音に解りやすく覚えやすい「師」と「走」の漢字を当て、「師走」が誕生!そして、そこから、漢字の字形に即した「師趨」説や「師馳月」説が生まれてきたのではないか。
▼最初は単に、「師走は本当に先生が走るのか?」を調べただけだったのだが、悪しき性格が先へ先へと進ませた。「師走」一つ取っても、日本語の語源の摩訶不思議なことこの上もない▼語源辞典の決定版は未だ出ていないと思うが、少なくとも現時点での定説又は有力説を集めた、専門学者が集まっての日本語語源辞典の決定版を刊行してもらいたいものだ。() ア―、疲れた―・・・

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⇒実にいろんな説があるもんですね。「当て字・当て読み漢字表現辞典」では、「俗解による当て字だが表記と実感があいまって使用されている。」とあるように、慌ただしさを感じるうまい当て字ですね。

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