2011年7月29日金曜日

【六花10号H13-12】「漢字と日本人」1

前回まで「漢字と仮名の使い分け」のテーマにそって述べてきた。今回は、先に出てきた「漢字と日本人」という本について、六花記事から紹介したい。

「漢太郎の本棚NO.3」漢太郎


今回は、最近漢太郎が読んで特に強くインパクトを受けた本があります。
「漢字と日本人」という新刊本です。
この本については、じっくり書いてみたいと思い、ページが増えてしまいました。
今回はこの本のみ取り上げます。では始めましょう。長文御勘弁を!

書名 「漢字と日本人」 高島俊男 著、文春新書、720円+税発行
平成131020日 第1

Ⅰ はじめに
 決して難しい本ではない。むしろ難しいことを、とてもやさしく書いてある本だ。また、学者が読むような専門書とも違う。しかし、漢字や日本語に関心がある人にとっては、最初から最後まで刺激に満ちた本だろうと思う。人によっては漢字・日本語に対する考え方が180度変わってしまう、そんな可能性を持っている本だと思う。私にとっては、これまで読んできたこの種の本の中では、最も強いインパクトを受けた本となった。

Ⅱ 内容紹介及び書評から
 ちなみに世間一般のこの本に対する内容紹介及び書評(主に一般投稿)を探ってみたので紹介したい。これだけでおおよその内容がわかると思う。(※下線は漢太郎)

●内容
本来漢字は日本語とは無縁。だから日本語を漢字で表すこと自体に無理があった。その結果生まれた、世界に希な日本語の不思議とは?
「カテーの問題」と言われたら、その「カテー」が家庭か假定かあるいは課程か、日本人は文脈から瞬時に判断する。無意識のうちに該当する漢字を思い浮かべながら…。あたりまえのようでいて、これはじつは奇妙なことなのだ。本来、言語の実体は音声である。しかるに日本語では文字が言語の実体であり、漢字に結びつけないと意味が確定しない。では、なぜこのような顛倒が生じたのか?漢字と日本語の歴史をたどりながら、その謎を解きあかす。

●書評1 ~(略)~

●書評2 「革命的小著」
 このわずか250頁の小さな本が与えてくれる知的興奮は数千頁の専門書に勝る。この本のすばらしさはふたつ、書き方と内容。週刊文春の連載『お言葉ですが』で実証済みの客を逃さない文章のうまさ。それにこの原稿が元々外国人向けに準備されたものを下敷きにしているという事情も手伝ってわかりやすい。論理に隙がない。なぜこのような文章が書けるか。漢字と日本語と言語学一般について著者がず抜けた見識を持っているからだ。
日本語話者が漢字を導入したというのは、日本語を書き表す記号として英語を単語熟語ごと取り入れて、それを日本語で読み替え、さらに英語の読みも残したと言うに等しいと言われると(75頁)かなりドキッとする。和語である「とる」を取る採る撮るなどと書き分けるなどアホな!!ことと喝破される(87頁)となおドキッとする。だが納得させられる。
漢字導入の成否は結局良し悪しらしい。音声が意味を担えなくなったので言語としては「畸型」になったけれど、語彙が豊富になったのも事実。和語に漢字を使うのはやめて、その一方で字音語(漢熟語など)の表記には漢字を使い、その際正字体(旧字体)の意義を見直すべしというのが著者の主張。
この本は漢字に対する考えを変えさせる力を持っている。評者は国語教師をしていたが、大きなお世話であることを承知でこの本を国語教師にまず読んでもらいたいと思った。なぜ漢字を教えるのか、なぜ漢字を学び、そして使うのか教師は納得しておくにしくはない。教養としての漢字でなく、日本語にとってやっかいでそして「腐れ縁」となった存在 ! ……そして、それでも漢字は大切なのだ。
なお疑問もある。著者は音声が意味を担えないのは言語として健全な姿ではないという。健全かどうかを著者があまり好きではない西洋の言語学の立場から判断しているように感じた。これは健全とか不健全の問題なのだろうか。私にはむしろ興味深い面白い言語に思えるのだが。

●書評3 ~(略)~

●書評4 
 本書を読み、まずびっくりするのは、「日本語は、世界でおそらくただ一つの、きわめて特殊な言語である」という著者の見解である。言語の実体はそもそも音声であって、文字は本来的なものではない。人が声に出し、それを聞いて意味をとらえるのが言語の本質である。文字をもたない言語も山ほどある。ただ日本語だけが例外で、言葉の半ば以上は文字のうらづけなしには成り立たない。コーエンと聞いたって、それだけでは公園なのか講演なのか後援なのか好演なのか高遠なのか分からない。
 文字(漢字)に頼り切ることで、はじめて言葉が成立する。それが世界的にも特異なことだと著者は説くのだが、その特異さは、千数百年前に漢字が渡来したときにムリして「よみ」をあてたことにはじまるのだという。漢字をありがたがり、ことさらに重視することのこっけいさを書き、また一方で、戦後のどさくさにまぎれて漢字の制限を決めた「国語改革」の愚かさ加減をも突く。漢字はもともと日本語の体質にあわない。漢字によって日本語は畸型化したが、これからも畸型のまま生きてゆくほかないとする結語を見よ。(日刊ゲンダイ)

●書評5
 中国文学研究者にしては、漢字があまり好きではないようだ。というより、むしろ嫌っていると言うべきかもしれない。漢字を取り入れることによって、日本語の発達が止まってしまった、というのが著者の持論である。ただ、だからといって短絡的に漢字不要論を唱えているわけではない。千数百年まえに日本にとって漢字は世界でたった一つの文字だったから、受容するのはやむをえない、というのがその理由である。
 漢字を論じる本は取っつきにくいものが多い。もともと文字学や音声学のみならず、語彙論や意味論の問題も絡んでいるから、いきおい専門的な叙述になりやすい。だが、高島俊男の手にかかると、難しいテーマもわかりやすいものになる。しかも身近なたとえで、ユーモラスに説かれている。言語問題に関心を持つ者にとって、ありがたい気配りである。
 だからといって、内容が浅いということはもちろんない。万葉仮名については専門家の論考を引用したり、言語史や音韻学に関連する問題についても関係文献をきちんと読み込んだ上で批評している。
 するどい舌鋒はいつもと変わらない。中国から漢字をもらったのは、恩恵をこうむるどころか、日本文化にとって不幸なことだと断言し、漢字の多い文章を書くのは、無知で無教養な人だ、とけなしてはばからない。さらに、一般民衆のことを「無教育な者」と言い放ち、平安物語文学を「女が情緒を牛のよだれのごとくメリもハリもなくだらだらと書きつらねたもの」と一蹴する。歯に衣着せぬというより、はらはらさせられる発言である。
 過激なことばの裏には、日本語に対する並々ならぬ愛情がある。とくに近代日本の漢字政策についての批判には、強烈な思いがこめられている。明治維新から戦後にいたるまで、人為的要素によって、日本語の漢字はさまざまな混乱が生じた。なかでもいわゆる国語改革は取り返しのつかない失敗をもたらした。この二点は本書の眼目であり、またもっとも力を入れて論じられたところである。
 英語をはじめ、西洋語を翻訳したとき、明治の知識人たちは音を無視して文字の持つ意味だけを利用した。その結果、文字を重んじ、音声を軽視するという悪弊をもたらした。それに比べて、江戸時代以前の和製漢語は耳で聞いてわかる。しかし、明治の造語は字を見ないと見当がつかない、と著者はいう。
 当用漢字の制定は、国語改革という名のもとで行われた愚行である――この見方に立脚して、明治期から戦後にいたるまでの、さまざまな漢字廃止論を取り上げ、容赦ない批判を加えた。かなの使用、ローマ字化、はたまた英語やフランス語を国語とするなど、主張は種々雑多だが、漢字にかわって「先進的な」表音文字を取り入れようとする点ではすべて共通している。
 漢字廃止論の検証を通して、近代日本人の精神構造を逆照射させる手法は鮮やかである。かつて一世を風靡した「改革」も、今日振り返って見れば、いずれも盲目的な西洋崇拝によるもので、浅はかな認識にもとづく失策にすぎない。進歩史観に対する批判は辛辣でおもしろい。著者のことばを借りれば、明治以来、「坂の上の雲」ばかり見て、愚かなことをくり返してきた。だが、坂の上にたどりついてみれば、雲に見えたのは蜃気楼に過ぎなかった。
 戦後の国語「改革」も同じである。かなづかいの変更、字体の変更、漢字の制限は結局、文化の連続性を切断するという悪果しかもたらさなかった。文化批判としては一つの知見といえよう。その点において、本書が持つ意味はたんにことばの問題にとどまらない。時代が大きく変動する現代では、文化の将来を考える上で傾聴すべき意見である。
(毎日新聞2001年11月4日東京朝刊から)

続きは次回とします。

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