2011年7月22日金曜日

「簡単な漢字まで仮名書きされる」ことについて 5

前回は文豪谷崎の「文章読本」からの紹介でしたが、今回は再び現代に戻り、高島俊男氏の「漢字と日本人」(文春新書)から関連箇所を紹介する。
高島俊男氏は中国文学者にしてエッセイストであるが、特にこの新書を初めて読んだとき私は大きなインパクトを受けた。漢字と日本語の関係について、目からウロコが落ちるような思いがした。(今は、氏一流の見方も含まれていると考えている。)

氏の主張の要点は、ウィキペディアにうまくまとめてあるのを見つけたので、まずはそれを引用する。
・、「漢字は本来、シナ語を表記するための言葉であり、日本語を表記するのには適さない。もし中国の言語・文字が入ってこなければ日本語は健全に成熟し、いずれ、やまとことばに適した文字を生み出していたに違いない。それが、まったく違う言葉と文字の『侵入』によって、日本語は発育を阻止され、音だけでは意味が通じない、文字を見なければ伝達できない言葉ができあがってしまった」、「そのため、日本語本来のやまとことば(和語)を表記するのに漢字を使うのは不自然である。まして、やまとことばを漢字で表記する際に複数の漢字の候補がある場合、『どの漢字が正しいのか』と議論するなど滑稽きわまりない。」(ウィキペディア引用はここまで。下線は私が付した。)

少し付け加えてまとめると、「漢字はなるべく使わぬようにすべき」※1、「字音語は漢字で書かねばならない」※2、「漢字を制限してはならない」※3などが主な要点である。
※1…広辞苑作成で有名な新村出博士も、漢字を主とする文体から仮名を本位とする文体に変えてゆくのがよい、という主張をしていた。驚きです。
※2…たとえば「こうえん」では分からない、「公園」「公演」「後援」「講演」「高遠」等と漢字で書かなければ意味が通じないのである。
※3…漢字を制限することは日本語を貧しいものにするから。

⇒漢字をなるべく使わないなどというのは驚くべき主張だが、専門家ほどそのような考えになるように思える。ただ、「漢字と仮名の使い分け」の問題は、外国語の漢字が文字の無かった日本に輸入された以降の歴史に絡む問題でもあることが分かる。実に奥深い面白いテーマなのである。
このテーマもそろそろまとめに入りたいと思います。

3 件のコメント:

Peko さんのコメント...

この仮名書きシリーズ、面白いですね。
谷崎氏の「言葉は不完全なものであるから、文章は視覚的・音楽的効果を考えながら内容と調和するように言葉を選んで書く」は、とても共感出来ました。でも、今回の高島氏の「日本語本来のやまとことば(和語)を表記するのに漢字を使うのは不自然である。」というのには、ビックリです。時代がまるで、逆のようです。
次回のまとめも楽しみですが、「六花」への投稿もお忘れなく!!

Dogu さんのコメント...

ホント、特に知識人のなかにこのような考え方、こだわりがあるようです。このことは意外と知られていないのではないかな。。。
六花は来月締め切りでまだまだ先があります、と思っているのですが、「まだはもうなり、もうはまだなり」で、気付いたら締め切りというのがいつものパターンですが・・・(^_^;)
ブログへのコメント、励みになります、ありがとう!
※「ありがとう」は「有り難う」とは書きたくないですね。気持ちが感じられない気がするので。

mc554 さんのコメント...

また新たに仮名書きされている簡単な漢字を確認しました。

 本当 → ホント、ほんと、ほんとう
 ○○様 → ○○さま
 暑い → あつい
 涼しい → すずしい
 珍しい → めずらしい
 深い → ふかい
 防ぐ → ふせぐ
 香る、薫る → かおる
 僕 → ぼく
 私 → わたし
 例えば → たとえば

といった所ですかね。確かにやわらかさの追求に少しはひらがな表記が必要という声も上がっていますが、学習の一環として漢字の使用が増えることを望んでおります。