2011年7月19日火曜日

「簡単な漢字まで仮名書きされる」ことについて 4

このテーマも4回目となった。考える材料として、私が所有する蔵書のなかから、「文章法」や「文章読本」に類する書物を引っ張り出し、関連箇所を紹介しています。
ルールがないところを先達がいかに悪戦苦闘しながら思考をめぐらしているか、そのあたりが面白いですね。(かなり自己満足になっているのかもしれないが。)
今回は「文章読本」の古典ともいえる谷崎潤一郎の「文章読本」(昭和9年)を見てみよう。

・~口語文といえども、文章の音楽的効果視覚的効果とを全然無視してよいはずはありません。なぜなら、人に「分らせる」ためには、文字の形とか音の調子とか云うことも、与(あずか)って力があるからであります。~既に言葉と云うものが不完全なものである以上、われわれは読者の眼と耳とに訴えるあらゆる要素を利用して、表現の不足を補って差支えない。

・たとえば「寝台」などと云う字面は、「シンダイ」と「ネダイ」と二た通りに読まれることは已むを得ない。で、結局日本の文章は、読み方がまちまちになることをいかにしても防ぎ切れない、のであります。ですから私は、読み方のために文字を合理的に使おうとする企図をあきらめてしまい、近頃は全然別な方面から一つの主義を仮設しております。と云うのは、それらを文章の視覚的並びに音楽的効果としてのみ取り扱う。云い換えれば、宛て字や仮名使いを偏に語調の方から見、また、字形の美感の方から見て、それらを内容の持つ感情と調和させるようにのみ使う、のであります。

・まず、視覚的効果の方から申しますならば、「アサガオ」の宛て字は「朝顔」と「牽牛花」と二た通りありますが、日本風の柔かい感じを現わしたい時は「朝顔」と書き、支那風の固い感じを現わしたい時は「牽牛花」と書く。~仮名使いも同様の方針に基づいて、分り易いことをことを主眼にしたものは送り仮名を丁寧にし、特殊の情調を重んずるものは、それと背馳しないように適当に取捨する。故に或る時は「振舞」になり、或る時は「振る舞い」になる。たとえば志賀氏の「城の崎にて」の文章では「其処で」「丁度」「或朝の事」「仕舞った」等の宛て字を用いてありますが、字面をなだらかに、仮名書きのような感じを出したい時は、「そこで」「ちょうど」「或る朝のこと」「しまった」と書くことを妨げません

・詮ずるところ、文字使いの問題につきましては、私は全然懐疑的でありまして、皆さんにどうせよこうせよと申し上げる資格はない。鷗外流、漱石流、無方針の方針流、その孰れを取られましても皆さんの御自由でありますが、ただ、いかに面倒なものであるかと云う事情を述べて、御注意を促すのであります。
(※太字は原本通り、下線は私が付した。)

⇒視覚的効果については前回の本多勝一氏も触れていた。上記谷崎の「文章読本」はその後の文筆家などに大きな影響を与えたであろうことは想像に難くない。上記の要点は「言葉は不完全なものであるから、文章は視覚的・音楽的効果を考えながら内容と調和するように言葉を選んで書く」ということだろう。これ以上には、「漢字と仮名の使い分け」の統一的・技術的なルールまでは考えてはいないようだ。
この音楽的効果というのは分かりにくいが、たとえば老人がぽつりぽつりと語る場合に、あえて平仮名を多用して文章のテンポをゆるくしたりすることなどを指しているらしい。
これらが昭和9年に書いた文豪谷崎の考え方の一端である。

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