2011年7月9日土曜日

【論語2-22、19-10】人にして信無くんば~

論語の中で再三にわたって出てくる孔子が目指す最高の徳は「仁」(思いやりの心とでも訳そう)だが・・・・
むしろ「信」(信用、信義)をキーワードにして読んだほうが現代人にはわかりやすい、というのが学者であり評論家でもあった故谷沢永一の持論であった。(「古典の読み方」PHP文庫、「人生は論語に窮まる」PHP文庫)
大変参考になる意見と思っている。
昨日は「信無くんば立たず」だったので、今日は関連する別の箇所を見よう。(訳は金谷本。)

・子の曰わく、人にして信なくんば、其の可なることを知らざるなり。大車輗(ゲイ)なく小車軏(ゲツ)なくんば、其れ何を以てかこれを行(や)らんや。
・先生がいわれた、「人として信義がなければ、うまくやっていけるはずがない。牛車に轅(ながえ)のはしの横木がなく、四頭だての馬車に轅のはしのくびき止めがないのでは、[牛馬をつなぐこともできない、]一体どうやって動かせようか。」

この言葉は論語中で私が最も銘記しているところ。まあ、この人間社会は一人では生きられない、とすれば、互いの信頼関係が最も大事である。そのためには人に嘘はつかない、人を裏切らないことは至極当然のこと。この当然のことが難しいのだろう。今、世間を騒がせている九州電力のメール問題がまさしく住民への裏切り行為ではないのか。
また、「信」に関係する箇所で次のようなところがある。

子夏が曰わく、君子、信ぜられて而して後に其の民を労す。未だ信ぜられざれば則ち以て己れを厲(や)ましむと為す。信ぜられて而して後に諌(いさ)む。未だ信ぜられざれば則ち以て己れを謗(そし)ると為す。
・子夏がいった、「君子は[人民に]信用されてからはじめてその人民を使う、まだ信用されない[のに使う]と[人民は]自分たちを苦しめると思うものだ。また[主君に]信用されてからはじめて諌める、まだ信用されない[のに諌める]と[主君は]自分のことを悪く言うと思うものだ。」

これは実際の人間関係でよく理解できるところで、同じ言葉を言われても誰に言われるかでまったく違うということはよくあること。孔子が生きた2千年以上前も現代も変わらぬ真実というところか。

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