2011年5月8日日曜日

【六花46号H23/3】笹原宏之教授への質問と回答 No.1

昨年12月5日の講演会の折に、講師の笹原先生への質疑を機関紙「六花」に掲載したものを紹介します。全部で11問ありましたので3回に分けて紹介します。

Q1.国字について:昔は盛んに使われていたけれど現在は使われていない国字があったら教えて下さい。(K・K)
A1.国字は、一番の専門ですが、集めれば集めるほどたくさん存在していたことが分かります。数千種はありました。「俥」(くるま)「毟る」(もぐとも)などは辞書に載りましたが、次第に使われなくなってきました。「しつけ」には「身偏に花」という国字もかつてありましたが忘れられ、残った「躾」もエステとかニクタイビと読まれてしまうように、このままでは死んだ字になりそうです。

Q2.私たちはいわゆる国字なるものを、今日の各種参考書、辞書などから学び知るわけですが、どれもほとんどが明朝体風活字で示されております。国字の歴史は、どのくらいあり、本来どのような形で見ることが可能なのか、お示しいただければと思います。(S・Y)
A2.国字は1300年くらい前から現れており、筆で書かれるものでした。日本では金石文、文献、文書などが多く残されているため、それらに豊富に見ることができます。「辻」など、2点で記されることはむしろまれで、基本的に書写体(漢和辞典では俗字などと称される)で記されてきました。平安朝の「あはれ」(発音はアファレ)が意味変化によって「哀れ」と書かれるようになり、中世にはアッパレが派生し、「天晴」と当て字がなされ、そこから「遖」と国字が生み出されました。しんにょうの揺れについては、11を参照下さい。

Q3.四十物(あいもの)について、当て字の由来等をお聞かせください。(A・H)
A3.子供のころに、富山県(たぶん入善町)の市場の名で見かけ、母に読みを聞きました。姓にもなっていますね。「相物・間物」と書き、中世に干物、塩漁の類を指すことばだったようで、それらの魚の種類が豊富なために四十と書かれたのでしょう。ちなみに、魚市場を「いさば」とも言い、「五十場」と当て、仙台では「魚偏に集」という地域文字も造られていました。

Q4.朝鮮、ベトナム等、漢字文化がなくなっていった原因は?(K・A)
A4.大まかに言えば朝鮮は、ある時期から中国式の漢字と読み方が良しとされ、訓読みが定着せずに廃れ、両班(ヤンバン)以外の庶民には漢字が広まらず、また漢字は借り物という意識、さらに物事に一元性を求める志向と重なって、ハングル専用となったわけです。ベトナムは、民族語を表記するために生まれたチュノムがありましたが、漢字の知識を前提とし、しかも漢字よりもいっそう複雑化したため、やはり庶民に広まっていませんでした。こうした中で、民族主義や共産主義といった社会情勢が関わりながら、ハングルやローマ字が漢字に取って代わったのです。

→ どんな質問にも明解に答えてくださる笹原教授に皆ポカーンとして聞いていたように思いました。続きはまた明日。

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